-【曽於市で暮らす人インタビュー】お茶で曽於市と世界を繋ぐ!又木さんの場合-
もともと曽於市末吉町の出身で、高校までこちらに住んでいましたが、大学進学で上京した後は、福岡で就職していました。福岡で約3年勤めたのち、同じ監査法人内の鹿児島事務所に異動になり、そこで3年ほど勤めたのち、30歳になった年に家業のお茶(末吉製茶工房)を継ごうと思って地元に戻ってきました。
いつかお茶をやりたいということはありましたけれど、具体的な日付などは決めていませんでした。30歳になる年にこれからのことを考えて、お茶に限らず農業って1年に1回収穫、何作も回すものもありますが、お茶は1年に1回です。そう考えた時に、個人でお茶を100回作ることができる人、三桁作ることができる人はいないと思いました。二桁が限界だとしたら、1年でも早くやったほうがいいのではないか、ということを考えるきっかけが29歳の時にありました。それで、よし帰ろう、と思いました。
反感を買うかもしれませんけれど、何もないところだと思っています。下手に人の手が入っていない。テーマパークや近未来的な建物を建てたりしない。それがいいところかなと思います。皆が同じことをあちらこちらでして、同じタイミングで廃れていくと、最後に残るのは寂しい印象です。その中で、あえて何もしなかった、何もなかった、というのがいつか強みになると思います。縛り付けるものや制約が良くも悪くもないため、自分たちの意思の力に左右されますが、それが曽於市の魅力じゃないでしょうか。
近年は急須離れと言われていて、ペットボトルが売れているのでお茶を飲む人はそんなに減ってはいないのですけれど、急須で昔ながらのお茶を飲む人というのは減ってきています。いくら自分たちはこれが美味しいんだ、いいお茶だ、と思いながら作ったところで、それは伝わらないと思いました。それでお客さんとより距離を縮めようと思って販売の仕方はいろいろ変えて、失敗もありましたけれど、ホームページを私の代で初めて作りました。オンラインショップを始めたことも、キッチンカーもそうです。
一つには、自分たちの腕試しもありました。客観的にうちのお茶はどう評価してもらえるのだろう、ということを知りたくて出してみたら、最高金賞である3つ星をいただけたのはありがたかったです。ただし、末吉製茶のお茶が一軒、知られたところで仕方がないというか。一人では限界があるし、仮に一人で何とかなったとしても続かないですし。末吉町、曽於市、もう少し大きく大隅、鹿児島として、地域としてお茶を知ってもらわなければ続かないということがあります。できるだけ「末吉製茶工房です」と言ったりせずに、「鹿児島のお茶です」とか「曽於市のお茶です」と言おうと思っています。長い目で見れば、そちらの方が自分たちも長生きできると思うからです。
自分たちもお茶の木も、とにかく無理をしないように心がけています。無理しないようにお茶が育つのを支えて、お茶から恩恵をもらう、お互いにウィンウィンな関係になるようにする。一方的な関係性だと続かないと思うので、そこは気を付けています。あと、目先の売り上げが伸びないと言って落ち込んだりすることもありますが、いつも長い目で考えるように努めています。ホームページにも書きましたが、300年経ってもここ末吉町でお茶が作られているという未来を創りたいです。そうした時に、絶対に300年間失敗ゼロということはないので、300年間やるならこれくらいの失敗は大したことないか、という気持ちは忘れないようにしていますね。
はい。具体的なものだと、以前実家を継ぐという話を、仲のいい友達に話した時に送別会を開いてくれました。そして、よくその三人で話していたのは「ニューヨークでうちのお茶を5ドルで飲んでもらおう」と。500円から600円くらいのところで、当たり前にニューヨーカーが日本茶を5ドルで飲む。抹茶ラテとかではなくて。5ドルで飲んでもらえる世界を作ろうという話をしたので、それは自分が立ち会えるうちにやらなければいけないと思います。ニューヨークで。
又木さんが始めたキッチンカー。作り置きはせず、オーダーが入ってから丁寧にお茶を立てて注いでいく
英国での国際食品コンテスト受賞は大きな自信となり、末吉製茶だけでなく曽於市としても注目されるように
無理はしない。今できることをコツコツと。それが未来に繋がっている